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悠々川柳・平成16年


ペリー来航150年へ長崎旅行京都旅行イタリア旅行

正月は美しが丘の家で過ごした。目標を失った迷いが多く語られている。その一方で情報通信が発達し、テレビが美しくなった。
昨年、「スピリット(魂)の実体は振動である」との悟りを開いてから、物の見方が一変したと感じる。それまでは、根本が不可思議で、宗教と の整理がつけられなかった。今では、あらゆることを根本から物理現象として見る。宗教の犠牲になる人間が愚かに見える。映像、音楽をスピリットそのものと 感じる。
スピリットは進化する。ローマ時代を知らずして、パクスアメリカーナは理解できない。愚かな人間が殺戮を起したのが歴史だ。「和の精神」こそが必要だ。世 界で最も進化しているのが日本人のスピリットではないのか。スピリットの共鳴現象の理解を深めて行きたい。「進歩史観」、「生と死」参照。

スピリットの 共鳴現象 と悟りたり
 
日本から 和の精神を 世界へ発信

季節の挨拶

年賀状に代えて、Eメールでのご挨拶が多くなった。


ご指導とご支援のお陰で、2003年度は560人の審査員が教育現場に出かけました。JABEEは本格化し、高い評価を得ているよう です。JABEEの一員として、奉仕できたことを、喜びとしております。
皆様のご指導と,ご協力のお陰と感謝いたします。
日頃の失礼をまとめてお許し下さい。

2004年は、ぺりーが横浜に上陸して150年になります。グローバル化の出発点と考えて、趣味の集まりである「横浜黒船研究会」では 4月17日(土)の午後に横浜開港記念会館で記念シンポジュウムを開催します。私もパネラーの一人で、「長崎から見た横浜開港」を話す予定です。「横浜黒船研究会」参照。
日米協会からは、「黒船」は、砲艦外交のイメージが強く、使わないで欲しいといわれています。

ホームページにスピリット(魂)論を加えました。ジハードなどに刺激されて思い至りました。物理学の進歩で考えると、神のために犠牲に なる人間が愚かに思えてなりません。 

物質をより高度に進化させる作用をスピリットと言う。神と言うのは宗教の方便に過ぎない。
スピリットの実体は何か? それは振動である。全ての化学結合は電子共鳴だ。電波は空間を伝わり、共鳴すると音や画像が現れる。テレビは魂を伝える。だから魂は振動だ。存在するの は、物質と振動だけだ。原子と電子共鳴だけだ。スピリットとは振動がより高度に共鳴して行くことだ。環境や願望は共鳴現象によりDNAに影響を及ぼすはず だ。進化は共鳴現象だ。価値あるものは共鳴現象を起す。」

ご批評下さい。 

新春を迎える、お慶びを申し上げます。

科学技術館

4月2日千鳥が淵に行った。桜が満開だった。






子供に、最初に人類が知りえた最高のこと、原子と電子の存在を教えるべきだと思っている。
 
孫の諄紘(今年三年生になる)に原子の構造を教える実験をしている。
模型があったけどどう見ても、オモチャで物理モデルではない。一年生の時に日本科学未来館に行ったが、電子が原子核の表面を這うようなモデルしか無かっ た。原子核を1mmとすると電子は直径100メートルの軌道上を振動しながらまわっているはずだ。
科学技術創造立国にしては情けない。
学術員の方に聞いたら、アメリカで作った映画「パワーズ・オブ・テン」があると云われた。
何十億円かかっても良いから、小学生に原子と電子の存在を分からせる、科学技術館を作るべきだ。

原子核 オモチャのような 科学館

日米交流150周年記念式典

2004年4月3日
横浜開港広場

    米国海軍第七艦隊音楽隊
   
日米交流150年委員長    大河原良雄
        
「日本が鎖国から世界に出る とき、交渉相手が欧州の国でなく、アメリカで あったことは、幸せであった。」

    日本代表                      小泉純一郎
   
米国代表                      ハワードH.ベーカー、Jr.

レセプション

横浜大さんばしホール
横浜黒船研究会は高齢者で、遠慮なく一番よいテーブルに行ったら、ベーカーさんが私に握手を求
めてきた。 小泉純一郎は欠席。国会議員らしき者は居たのだが。
年とって  日本代表の 顔になり



記念シンポジウム
     
横浜開港記念会館

堺屋太一
   
「歴史上向うところ敵なしで、多文明を平等に受け入れたのは、モンゴル帝国とアメリカだ。世界帝国になって赤字だったと     ころも良く似ている」




 
ペリー艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画「横浜上陸」 1854年3月8日
 


草間俊郎さん



ペリー提督横浜上陸・日米交流150 年記念行事

        ぺりー来航と横浜世界史デビュー

 開催日    平成16年4月17日(土)
 
会場       横浜市開港記念館
 

         詳細は横浜黒船研究会ホームページ参照

「開会」    総合司会 福田 征孜(せいじ)

     150年前の3月31日に、「日米和親条約」が調印されました。調印されたのはこの近くです。調印のあと、ペリー
    
は4月18日に横浜から下田に移動していますから、本日17日はぺりーにとって横浜最後の日でした。ペリー最
    
後の横浜の日を共に楽しみたいと思います。第1部記念シンポジウム、第2部記念音楽祭、そして懇親会を用意
    
しました。また、夏休みには記念特別展、公開講座を行います。
    
横浜黒船研究会に集まる方は相対的に高齢者が多いのですが、ぺりーも横浜に来た時60才でした。

   


「長崎から見た横浜開港」

      長崎の繁栄を引き継いだ横浜
     
横浜から始った日本のグローバル化

  長崎開港は、キリシタン大名大村純忠により、1570年であるが、開港前が草深い漁村であった点は横浜と同じである。横浜開港の直後までの約300年間に 渡り、長崎は海外貿易で繁栄した。帆船による大航海時代の覇者であったオランダは、長崎の出島オランダ商館で日本との貿易を独占していたが、19世紀に なって蒸気船時代を迎えると、ロシア、イギリス、フランス、アメリカが競ってアジアに進出し、開国は時代の趨勢になった。オランダは、自らの権益を守るた めもあったと思われるが、幕府に多くのことを教えた恩人である。横浜開港は、我が国の国際貿易都市の主役交代であった。

7年前から横浜に住んでいますが、長崎に30年余り勤めました。長崎から横浜に移るときに、長崎県知事から「長崎奉行」に任命されました。長崎奉行 は、1603年から1868年までの,365年の間に、124代おりまして、初期の奉行はキリシタン取締りをやりましたが、貿易を管轄する商務官であり、 幕末では外交官でした。オランダ商館が平戸から、長崎の出島に1641年に移されて、いわゆる鎖国になりました。
オランダ船が入港する直前の6月上旬に長崎に行き、出港したあとの10月中旬に江戸に戻る。奉行は単身赴任でした。(現在でも銀行の支店長は単身赴任が多 い。)江戸と長崎は盛んに行き来しています。

立山奉行所と西役所があり、西役所で外国人と応接しました。オランダ海軍伝習所は西役所に置かれました。そこから降りた直ぐの所に出島があります。 手前に降りた所が大波止の船着場です。現在も大波止です。
開国後に神奈川奉行が置かれ外国奉行を兼務し、長崎奉行は神奈川奉行の下になりました。

シーボルトの愛
ペリーは砲艦外交と言われるが、僅か10日間の滞在で、威厳を示して大統領の親書を渡して帰った。回答は、1年後に貰いに来た。なぜ待ったのか。
 シーボルトは愛する妻タキと娘イネの住む日本を思って伝えていた。「幕府が引き延ばしても、人道的に交渉すべきだ。」 「回答は1年待つべきだ。」日本 人は1年待つとYes になる。ペリーはシーボルトの乗船希望は断ったが、助言は守った。
そして、1854年に横浜で日米和親条約を締結した。この時は、日米接待合戦だった。

シーボルトは1823年にオランダ商館医として出島に来ましたが、熱心に医学を教え、鳴滝塾を開き多くの日本人を教育した。江戸に行ったとき、高橋 かげやすから、地図を入手し、1828年にシーボルト事件が起りました。シーボルトは芸者であったタキと結婚し、娘イネがいましたが残して国外追放されま した。紫陽花の一種をオタクサといいます。イネは日本初の女医になりました。
シーボルトは、ドイツに帰って暫く独身でしたが、結婚してドイツにも末裔がおり、交流しているのはNHKに紹介されました。
シーボルトの「日本」はペリーも読み日本を理解するのに役立ちました。シーボルトは横浜開港のあと横浜に来ています。

オランダ風説書
ペリー来航はオランダ風説書で知っていた。風説書きは薩摩や松前藩に伝えられた。長崎と江戸は飛脚で、7日で伝わった。情報の発達した日本は、砲艦で脅し て植民地になるような国ではなかった。
ペリーは世界で最も新しい国が,歴史ある国を開国する崇高なる使命を感じたのだった。

オランダはアメリカの独立とフランス革命にともない、イギリス、フランスとの戦争に巻き込まれ、1794年には本国がフランスに占領され、 181116年ジャカルタの東インド総督はイギリスに占領されました。オランダ国旗が立っているのは長崎の出島だけといった時期もありました。オランダ 商館長ドーフは都合の悪い情報は隠したのです。そのことは幕府は知っており。唐風説書き、漂流民からの情報などで、世界の情報を把握していました。

オランダと幕府の関係は、通商の相手として低く見られ、狭い出島に閉じ込め(3000坪)ていた。ぺりーはオランダのようになることを嫌い、長崎に は行っていません。日本が開国するにあたり、居留地を作り、国内旅行を制限できたのは、オランダとの経験があったからだと思います。




オランダ海軍伝習所
長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウスは、オランダ国王ウイレム三世が派遣したファビウス中佐の、海軍創設の意見書を、長崎奉行・水野忠徳に伝えた。

幕府は開明的だった。老中阿部正弘は国家百年の大計を考え、人材を育成した。
1855年12月、オランダ海軍伝習所が開所し、各藩から有能な人材を集めて、航海術、造船、砲術、天測、数学、蒸気機関,物理学、化学などを、二百数十 名に教育した。咸臨丸と同じ船を幕府が2隻、鍋島が1隻買ったが、一隻当り乗組員が70~80人必要だった。

1857年に、ヤーパン号(後の咸臨丸)に、3人の日本の恩人が乗船してきたことを忘れてはならない。
カッテンディケは、勝海舟を薫陶し幕末明治の回天に影響を与えた。伝習は16ヶ月で、3期行われたが、勝は出来が悪くて第二期に残った。カッテンディーケ は後に海軍大臣になった人物で、勝が幕府役人にしては広い視野を持ったのは、カッテンディーケの薫陶のおかげと思われる。
軍医士官ポンペ は 近代医学の礎。養生所を作り長崎大学の楚になったが、台湾征伐のときマラリア対策で台湾に行ったが、東京に戻り東京大学医学部の楚にもなった。
機関士官ハルデスは長崎造船所を建設し、日本の重工業の礎と云って良いだろう。 私は、長崎造船所長を勤めたが、「この造船所は伝習所総督・永井玄蕃頭のフライイングのお陰でできた」と説明した。幕府には長崎建設に反対する意見があっ たのだった。



       陣内松齢画 「長崎海軍伝習所及出島和蘭屋敷」 (鍋島報効会蔵)

海洋都市横浜の誕生
横浜開港により、貿易は長崎から移った。江戸時代、商業の7割が大阪だったが、神戸開港を3年遅らせたお陰で、それまで草深い砂嘴に過ぎなかった横浜が、 貿易の中心になったのだ。

否定すべきもの
1858年の開国後に沸き起った攘夷運動は、横浜から始った開国を否定するかに見えるが、幕府を困らせる策略であった。長崎は、坂本竜馬の亀山社中など、 武器輸入で倒幕の志士の舞台になった。明治新政府は攘夷運動を否定しないで、砲艦外交・不平等条約・幕府弱腰など、歴史の美化を行った。否定しないで、臥 薪嘗胆したから、太平洋戦争に影を落とした。



        1860年の長崎製鉄所・三菱長崎造船所の起源 (県立長崎図書館蔵)

咸臨丸海を渡る
咸臨丸は、1860年に日米修好通商条約の批准の時に、日の丸を掲げて太平洋を横断し、サンフランシスコに渡り、アメリカ国民の熱烈な歓迎を受けた。勝海 舟を始めオランダ海軍伝習所で学んだ者が中心になった。そのときの荒海を越える航海と日本人の活躍は、正に国際舞台への波乱万丈の船出であった。

横浜から始まったグローバル化の波
ペリー来航による開国で始った近代日本は、明治維新で国内の改革を行うと、わずか50年で日露戦争に勝って世界の強国になり、太平洋戦争を否定すれば、サ ンフランシスコ講和条約で国際社会に復帰するや、世界の経済大国になった。冷戦の終結とアジアの経済成長で、横浜から始まったグローバル化の波は、益々大 きなうねりになり、日本は真のグロバル化に向かって構造改革に取組んでいる。
長崎開港が第一の開国、横浜開港が第二の開国、そして現在が第三の開国と言える。



          鈴藤勇次郎画 「咸臨丸難航図」 (木村家所蔵、横浜開港資料館保管)

「シンポジウム閉会」    総合司会    福田 征孜

     ぺりーは185378日に浦賀沖に姿を現しましたが、アメリカを出発したのは18521124日で、半年以上か
    
けてはるばる来てくれました。日本からの回答を待って香港や上海に居まして、一年は待たずに半年待って1854
    
331日に横浜のこの近くで日米和親条約を調印しました。下田から帰途についたのが、625日です。ぺりー
    
がニューヨークに帰り着いたのは1855111日で、2年を越える旅でした。ペリーはお土産に蒸気機関車や電
    
信機などを手配し、フランス料理人とイタリアの軍楽隊を連れてきました。そして「好奇心」を目覚めさせてくれまし
    
た。

     砲艦外交と云われますが、(日本の砲台は丸い玉で400メートル、ぺりー側は3.5キロメートル)一発も実弾は
    
撃っていません。ワシントンの誕生を祝って18発とか祝砲を盛んに打ちました。予め幕府に伝えています。空砲
    
に驚くような日本だったのかどうか。「泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」は明治1
    
0年頃の作で、ペリーが来てから25年後です。夜も寝られなかったのは、好奇心のためでしょう。150年経った
    
今日、事実に基づいて見直しました。

     好奇心に目覚めた日本は、近代国家として世界の強国になり、世界一の経済大国になりました。そしてグローバ
    
ル化に向って新たな改革に取組んでおります。起点となったぺりーの横浜上陸をお祝いし、横浜から新たな好奇
    
心を呼び起し、横浜ひいては日本の発展に取組みましょう。

  



(長崎奉行への地元からのメール)
 



福田 征孜 様 

 福田様には、三菱重工業長崎造船所所長として長崎在住の折には、長崎県産業の発展に多大なご尽力をいただき、また、長崎県を離れられ てからも長崎奉行としてご支援をいただき、大変ありがとうございます。 
 私は、知事に就任以来、企業誘致や地場企業の育成など、産業の振興に重点的に取り組んでおります。また、まちづくりにも力を注いでいますが、去る3月 27日には、福田様がおられました三菱重工業長崎造船所の対岸の常盤・出島地区に、長崎港を中心としたまちづくりの象徴ともなる、水と緑あふれる「長崎水 辺の森公園」がオープンし、来年春にはこの公園内に「長崎県美術館」も開館予定です。さらに、平成18年春に、港口には「女神大橋」も完成予定で、長崎港 も新しい魅力が加わります。ぜひ、長崎にもおいでいただき、新しい長崎港の姿もご覧いただければと思います。 
 また、長崎県のイメージアップにも力を入れていますが、そのためには福田様はじめ長崎県にゆかりのある方々のご支援も大事であると考えています。 
 今後も、長崎県の魅力を広めるためのご協力や県政へのご提言などを賜りますよう、よろしくお願いいたします。 
 福田様の今後ますますのご活躍をお祈りいたします。 

           平成16年5月13日        長崎県知事 金子原二郎 
                   


 
 
 


長崎旅行(5月)

36年入社の同期会があり長崎に行った。

2007年が長船創業150年(三菱重工、ひいては日本の重工業の創業)、女神大橋も完成している。その時は是非長崎に行きた い。

着々と 立派に変わる 地方都市
長崎の 入口ひょっこり 出島道
見るよりも 広い芝生の 水辺森



<過密スケジュール>

21日(金)たまプラーザの自宅発6時、長船訪問
22日(土)大村湾カンツリー(スコアー98)
23日(日)の36年入社同期会は、イセエビの活き作り。水辺の森公園で『客船ご支援感謝の集い』の花火まであり。長崎は美しい。
24日(月)ペニンシュラ-ゴルフ(スコアー93)、たまプラーザ帰宅は23時。
25日(火)JABEE委員会、夜中に議事録を書き発信
26日(水)JABEE委員会、夜中に議事録を書き発信
27日(木)仙石原ゴルフ(スコアー91)「悠々会」
28日(金)箱根巡り
29日(土)テニス
30日(日)テニス


三菱重工業長崎造船訪問(21日(金))

太陽光発電の進んだ現状を見せてくれ、製造装置から製品まで、日本が目指す「スリ合わせアーキテクチャー」で、将来大きく成長す る可能性を感じた。
所長が、「CADの充実と徹底検証で、配管の追加工事費が大幅に減った」とのこと、全ての工事に成果が出る実力の向上で嬉しかった。
前所長から、今回の客船2隻同時建造はクリスタルハーモニーの5隻分の工事だったと聞いて、長船の力に感動した。23日船内見学をしたが、デザインも仕上 がりも立派だった。案内者や見学者に知った顔にたくさん会った。
リチューム二次電池は将来楽しみだ。研究者が製品完成までやるのがいい。長崎のハイテクの火を燃やしつづけて欲しい。
工作部長がタービン工場を案内してくれたが、私の時代と同じに見えた、長浜風車工場は良かった。 1000KW風車の、29メートル翼の構造と付け根の構造が斬新だが、アメリカのアイデアを取り入れているとのことで納得した。次は2000KWで、44 メートとのこといささか恐ろしい。経年フォローをしてアベイラビリティーで勝負して欲しい。
若手と懇談させていただき、言いたいことを云った。「対策は同時に三つやれ」
今回の長船訪問は顧客満足(CS)を越えて顧客歓喜(CD)だった。






京都旅行(7月9,10、11日)

駅ビルが モダンな京都 演出し
バスで行く 京都の町は 渋滞道
老舗(しにせ) 老舗 老舗 人 人 人


真如山荘

京都の吉田山の真如山荘で日本コスト工学会の合宿をした。
真如堂は、三井の菩提寺。元禄6年(1693)、再建されつつあった真如堂本堂に、三井 高利(家祖)が参詣し、自分の墓所は真如堂にしたいという希望を述べた。昭和5610月に三井グループの25社によって、研修道場「真如山荘」が寄進さ れた。

隣の光明寺は、松平容保の屯所が置かれ、会津藩殉難者墓地がある。



 
              


吉田山

散策していたら、アメリカから来た女子大学院生に茂庵に行く道を聞かれた。近所の人に聞きながら山を登って行った。吉田山の山頂 に緑に囲まれた静かな喫茶店があった。一緒にお茶を飲みながらスピリットの話をした。一生覚えてくれるだろう。

吉田山といえば、三校(現在の京都大学)の寮歌に歌われている。

紅(くれない)萌(も)ゆる丘の花
早緑(さみどり)匂う岸の色
都の花に嘯(うそぶ)けば
月こそかかれ吉田山(よしだやま)



六甲山

舞子駅に着くとアルファードが迎えに来た。
諄紘君(三年生)と葵ちゃん(3歳)が成長しているのに感心した。
諄紘君がごそごそしてると思ったら、パネルに写真を貼って説明を書き、クワガタのプレゼンテーションをしてくれた。すると、葵ちゃんまでプレゼンテーショ ンをする、子供は凄い。
百武一家と六甲山牧場に行き楽しかった。

諄紘は ピアノの腕も 向上し
やりだすと 少年野球に 熱中し
くわがたは インターネットで よく調べ
ゆとりとは 親が忙しい 教育だ
原子電子 知ってる効果 期待して



土手の道

織田貞四郎様から句集 「土手の道」(2004年9月1日発行)をいただいた。
織田さんは1920年生れ、1986年に三菱重工業常務取締役技術本部長を退任されてからも、樹木を愛でて俳句を楽しむ幸せな人生をあゆまれたことがうか がえて嬉しく思う。
1970年に起ったスペイン向けローターの破裂事故の原因究明では金森政雄、中村誠さんと共に材料の大家として教えていただいたことを思いおこす。


       二首をいただく、

桂木の 剪定楽し 葉の香る
 
菖蒲湯に 蛙の如く 浸りけり


 


音楽会(10月)

横浜グリークラブ定期演奏会       (10月3日 横浜みなとみらいホール)
長崎アカデミー男声合唱団を迎えて

長崎から同期入社の宮崎良君が出演。3階から鑑賞した。




並木男声合唱団                   (10月24日 横浜みなとみらいホール)

JABEE事務局の画星忠雄さんが出演。指揮者 吉田千鶴子さんはソプラノ歌手で、40人のおじさんが集まる楽しい趣味の会だ。



佐藤卓史(たかし)ピアノコンサート     (10月27日 上大岡「ひまわりの郷」ホール)

支援する戸田克子、河合武久さんに誘われた。感想を送った。

「スケールの大きな演奏で、圧倒されました。作曲家のリストを越えたのではないか? 才能を感じました。
この世の全ては物質とその振動でなりたっているとの宇宙観を持っています。
昔は分からないことは神としました。結果として神の僕になりました。昔の音楽は神のもとにあったと思います。
物理学の世紀に居る我々は、本質を理解すべきです。そして主体性を取り戻すべきです。その意味において、音楽(振動)は魂そのものです。
神の僕ではない、主体性を持った魂の音楽であるが故にリストを越えた。」


        「振動現象論を書い た。
 
 
 


イタリア旅行

ローマ人の物語(塩野七生、12巻)を読んでパクスロマーナからヨーロッパが始まったことを知り、ヨーロッパ旅行はイタリアから 始めた。今回はミラノから入りローマに抜けた。キリスト教文化に圧倒された後にローマ帝国の偉大を見た。ミラノ、ベネチア、ヴェルーナ、フィレンツェ、ピ サ、シエナ、アッシジなどは中世のままで、ドウオモと鐘楼が高く、低い茶色のくすんだ町がまるで跪いているようだ。中に入ると豪華絢爛に驚く。キリスト教 は濃密だ。岩倉米欧視察団が、「魑魅魍魎のたわごとといわずして何というべきか」と感想を残しているが、私はローマ時代の人間力が失せた理由に思い を馳せざるを得ない。最後にカピトリーノの丘に立ってカエサルの活躍を思った。ガリア戦記によるとローマはガリアと争い蛮族と戦って平和を守ったが、ガリ アとはフランス、蛮族とはゲルマン、そしてローマ皇帝はペルシャに攻め込んでひどい目に会ったが、それは今のバグダットの辺りであった。パクスロマーナを 真似るパクスアメリカーナのブッシュ大統領は二千年前と変わらない構図に取組んでいるのだ。紅葉の程度は東京より遅く寒さは厳しくなかった。ローマでサハ ラ風による湿りがあっただけで、好天気に恵まれた。



パクスロマーナは 心の パクスキリストに
 
大航海 時代の覇者は 何故スペイン
 
パクスアメリカーナ 頑張れ頑張れと 期待する



ミラノ

ガイドは恩田さん。ドウオモの壮大さに圧倒される。中に入ると薄暗くステンドグラスが美しく荘厳な雰囲気でミサが行われていた。 その屋根の上に登った。天にまします神になったわけだが、キリスト教では上から踏まれることを何とも思っていない。聖人の棺も足の下にある。ドウオモは 1365 年から約500年かけて建設された。ゴチック様式最大(長158m、巾93m,18000人入れる)で、135の尖塔が林立して美しい。彫像が1537 体、マドニーナの高さは108メートルだ。地震が起らないことを祈る。
 
ミラノ人は勤勉で約束を守る。政治はローマだが経済はミラノが中心になっている。ガレリア186577建設)はヴィトリオ・エマヌエレ二世の名で呼ば れ賑わっている。その先にスカラ座がある。
 
聖マリア・デレ・グラッツイエ教会の食堂の「最後の晩餐」(149597)は、レオナルド・ダ・ヴィンチが漆喰が乾いた上に描いたので、かびたが近年 復元された。遠近法による構成が優れているが、ローマではポンペイの遺跡ですら既に遠近法で窓の代わりに景色が描かれていた。

     

500年 かけてドウオモを 建設し
 
ミラノは イタリアの勤勉も 代表し

ベニス

砂洲に建設された海洋都市である。海水は氷河の水のように濁っている。木造船時代は船虫にやられるので港は河川に作られたが、こ の辺は良かったのだろう。海賊からの攻撃を避けるために砂洲に移った。まるで水鳥が獣を避けて中州で眠るように。砂州は海水位が下がって水面上に現れた所 (5000年前の海水位は2.5メートル高かった、日本では縄文海進)だから、満潮時には浸水する。サンマルコ広場も足場の上を渡る。ガイドは五月女さ ん。
 
謁見の間の豪華さに打たれた。天正少年使節団が訪れた時と変わらない。
ゴンドラに乗って水路に出ると、マルコポーロの家があった。
ベネチアグラスの工房では、流暢な日本語で「あっと驚く為五郎」などと売り込む。ベネチアの住民はかっての20万人から6万人(内2万人は海外の金持ちで 別荘)に減り、年間1300万人の観光客が押し寄せる。



  天正の 少年が見た絢爛を 今も見る
 
マルコポーロの 家はゴンドラの 水路沿い
 
浸水は 温暖化のせいと 騒がずに






ヴェローナ

7月のヴェローナ音楽祭はアリーナ(ローマ時代の円形劇場、22,000人収容)でオペラ(7月~9月)が行われ世界中からファ ンが押しかける。アリーナは1183年の大地震で外周が崩れ落ちた。ジュリエットの家を見た。ガイドは黒崎さん。



  大地震 忘れるなと立つ 遺跡壁

         



フィレンツエ

アルノ川の辺にあるルネッサンス文化の花の都である。アルノ川とルビコン川の線がローマ帝国の境界線で、ローマ軍団は武装解除し て帰国しなければならなかった。カエサルが紀元前49年1月12日に武装したまま「ルビコン川を越えた」ことを思った。ガイドは関さん。
 
ウフィッツィー美術館は、メディチ家のオフィスがルネッサンス美術館になったもので、ボティチェリーの春(1482頃)、ヴィーナスの誕生1484頃) などがある。コジモがルネッサンスの芸術家を支援したが、彼が集めたローマ時代の彫像が廊下に並んでいる。ローマ時代の彫像の人間性豊なのと較べ、キリス ト教に支配されようやく人間性を回復した絵画の世界が痛々しい。コジモもローマ法王にひざまづきながら内心はローマ時代の人間力を崇拝して いたのではないかと思った。



気づかずに ルビコン川を 越えた旅
 
藝術の 町は革製品 世界一



                

ピサ

アルノ川の河口の海洋都市であったが、現在は港は砂に埋まり、10数キロ先になっている。ガイドはミレアムさん。ドウオモ、斜 塔、洗礼堂が美しい。斜塔は1174年に建設開始され、3層を作った時に斜きが問題で中止されたが、14世紀半ばに完成した。ガリレオ・ガリレイはピサ大 学の教授だったが、重力の実験をし、望遠鏡(30倍)を作って観察し、天動説を唱えた。ローマ法王から地動説を証明することを求められたが、「やはり地球 は回っている」と云った。78歳で死ぬ時の遺言は、「自然界を探求するには、聖書を学ぶのではなく、自然界をよく観察すべきだ。自然界には神の啓示が沢山 隠されている。」 ガリレオはミケランジェロが死んだ1564年に生れ、ニュートンが生れた1642年に死んだ。



  出来たての ようにキレイな 斜塔立ち
 
ガリレオが 座った教会 美しく

          

フィレンツエの夕食は電子オルガン演奏と歌があった。ジョンレノンの「イマージン」が歌われた。キリスト教の抑圧から解放され た。



想像してごらん
 
天国なんてないんだと
 
その気になれば簡単なことさ
 
僕らの足元に地獄はなく
 
頭上にはただ空があるだけ


シエナ

ドウオモは三色の大理石で美しい。中世都市そのままだ。案内してくれた現地の人と結婚している真弓さんによると、カトリックだけ でなく、新教もユダヤ教もイスラム教も住んでおり、洗礼しないし、教会に行かない人が多いとのことだ。カトリックのドウオモは大きくて立派だが行かな いのか? プロテスタントは宗派がいろいろで教会は小さいが、アメリカでは50%の人が行く。
カンポ広場で行われるパリオ(7月2日と8月16日)には周辺の町からの競馬に熱狂する。写真を見ると中世と同じように裸馬に跨っている。



中世都市 変わらぬ町に 新人類

     

アッシジ

聖フランチェスカの教会だ。父は豊な毛織物商で良くフランスに行き、母はフランス人だった。それでフランチェスカ(フランスっ 子)と呼ばれた。若いときは都市国家間の戦いに参戦し怪我をし、突然神に使えるようになった。44歳で亡くなり、2年後の1228年に聖人に加えられた。 若い時に戦争に行ったのは、ザビエルも同じだ。聖人も普通の人だったことに親しみを感じる。長崎には26聖人がいるが、1597に十字架にかけられ ローマカトリック教会が聖人に加えたのが1862年で265年もかかった。聖人の命日には世界中のカトリック教会でミサが行われる。長崎にもドウオモが あっておかしくないなどと思った。ガイドはサンドロさん。ジャンヌダルクは1431年に19才で火刑にされ、聖人になったのが1920年で489年かかった。



若いとき 戦に行った 聖人さん
 
領主より 神に仕えて 聖人に

            

ポンペイ

西暦79年8月24日にベスビオス火山が噴火して6メートルの火山灰に埋まった。山は上部が吹き飛んだ。ガイドはマリアンナさん で日本語ができる。発掘されたポンペイの町が立派だが,当時のローマを思えば当然だ。玄関にモザイクで犬の絵があり、猛犬注意と書いてある。水道、公衆浴場、パン屋など整っていた。死んだ人を石膏でかたどったものがあったが、火山ガスは呼吸停止して動けなくなるから恐ろしい。
 
カメオ細工の工房に行った。ピザの発祥の店に行った。本場のピザはさっぱりしている。



敷石で 舗装されてた ポンペイの町
 
飛び石で 横断歩道は 汚れずに
 
馬繋ぐ ひっかかりもある 歩道石




ヴァティカン

ガイドの竹内さんが良く見せてくれた。ヴァティカンの内部の壮麗さは圧倒的だ。ミケランジェロはシステイナ礼拝堂の「天上画」 (1508~1512)と正面の「最後の審判」(1536~1541)を描いた。ミケランジェロのフレスコ画は色鮮やかでモーツアルトの音楽と同じよう に、天才の作品はのびやかだ。サンピエトロ寺院の巨大さは圧倒的だ。



漆喰を 塗りながら描いた ミケランジェロ
 
フレスコ画 新鮮な色 鮮やかに







ローマ

コロッセオは大きい。猛獣との戦い。剣闘士の死闘。ローマ市民にはパンと見世物が与えられた。その一方でローマ市民は最強の軍団 を組んでパクスロマーナを守ったのだ。
真実の口には多くの観光客が写真を撮るが、教会は小さく募金箱があった。
トレビの泉でコインを投げた。ジプシーに取られないように注意した。スペイン広場からコンドッティ通りのブランド店を見て、コルソ通りをヴェネチア広場に 行き、カピトリーノの丘からフォロロマーナを眺め、カエサルの時代を想った。
夜はカンツォーネディナーで盛り上がった。今回の旅は朝6時起き、夜11時ホテル着など盛りだくさんだったが、添乗員の阿部さんのお陰で楽だった。



  ローマとは 寛容と正義の 多神教
 
征服した 部族は許され ローマの市民
 
城壁を パクスロマーナは 取り除き 
 
ローマ帝国 防衛線はるか ラインとドナウ
 
人口増 蛮族の南下 止められず
 
城壁を 新に築いて 都市防衛
 
キリストの お陰でようやく 穏やかに
 
現代は スリに注意の ローマとは



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